GAYAGAYAを始めた理由
はじめまして。
GAYAGAYA 代表 竹内亜紀と申します。
私たちは、高尾山のふもとにある築50年の民家をリフォームして
普段なかなかできない自然体験ができる宿泊施設を作る事となりました。
自分自身がこの15年間、都会から相模原市の山に囲まれた田舎に移り住み
マイナスイオンの中で、心から癒される環境の中で暮らしてきました。
人の暮らしって、やはり自然とは切り離せない。
そんな事を考える中で、このような素敵な環境を沢山の方々とシェアできたらいいなとずっと思ってきました。
だったら福島原発事故の影響で地元での自然体験の機会が少なくなってきた福島県を中心する東北の子ども達のためにも、思い切って初めてみよう。
それでGAYAGAYAをスタートすることになりました。
なぜこんな施設が必要と思ったのか。
少しお付き合い頂ければ幸いです。
2011年の原発事故以来、福島県の母達は自分の子ども達を福島県外に必死で連れ出し、全国の保養受入団体を訪れながら、自分の子ども達の健康回復のために死に物狂いで時間を費やしてきました。
私は保養受入団体の一つである、神奈川県で活動している『母ちゃんず』というボランティア団体の代表として、この12年間で延べ約950名の親子と出会い、福島の母達の切実な思いに触れてきました。そうした中で今回当プロジェクトを開始する決心をしました。
なぜ私が当プロジェクトを始めようと思ったのか。
それは、福島の母は自分の姿でもあるからです。
2011年3月11日14時46分
神奈川県に住む私は、幼稚園生の息子を迎えに行くために車を運転していました。
突然車中でも分かるような大きな揺れ。
近くのパチンコ店からは大勢の人々が外に出てきました。
「ただ事ではない!」
停電している信号をなんとかくぐりぬけ、急いで自宅に戻りテレビをつけた時は、仙台空港が津波にのまれるその瞬間でした。
「ああ、本当にやばい事になっている。」
関東地方でも地震警報が不気味になり続け、外はヘリコプターの音だらけ。
そのうち夫からの連絡。
「原発が空焚きになってる!!」
心がざわざわする中、田舎に住んでいる私はガソリンの消費を抑えるため、都会に住むママ友の家でお世話になろうと思い、その日に限ってバスと電車を乗り継いで乳飲み子の次女をおんぶして外を長時間歩いていました。
3月14日。
原発が爆発し、猛烈な量の放射能が噴出しているとも知らずに。
その日を境に6歳の長男に直径約1センチの口内炎ができ始めとても痛がり、数か月本当に悩まされました。
幼稚園の子ども達は花粉症のような症状がとても増えました。
いろいろな情報をかき集める中で、放射能の影響で口内炎や花粉症のような症状があるという事が分かり、関東地方でも増加している事が分かりました。
何か得体の知れない本当にやばい事が今、日本の中で起こっている。
私は3人の子ども達が将来甲状腺がんになるのではないかという不安におしつぶされそうになり、一切の外遊びをやめさせました。
洗濯物も外で干せない毎日。
食べ物の産地を気にする毎日。
何を食べさせて何を飲ませたらいいんだろう。
半分鬱状態でした。
祖父母が住んでいた福岡の家に引っ越そうかな。
でもそんな事したらこっちの友達とは縁が切れるだろうな。
悩みに悩んで出た結論。
そうだ。
ガイガーカウンターを買い、生活圏を計ってみよう。
その結果、そんなに心配するような数値ではなく、ようやく幼稚園も再開させ、普段通りの日々が戻ってきたのです。
もう夏になっていました。
その年の9月。東京新聞で見つけたある新聞記事が、これから先の私の人生を変える事になったのです。
保養キャンプのはじまり
琉球大学矢ケ崎教授。
「チェルノブイリでの甲状腺がんは、5、6年後から発症が急増している。福島の汚染状況はチェルノブイリ並みに深刻。つらくてもまずそれを認識してほしい。福島でも必ず起こりうることだと申し上げたい」
その時です。
自分の3人の子ども達が将来甲状腺がんになるのではないかと不安に押しつぶされそうだったあの時の気持ちがはっきりとよみがえり、東北の母達は今どんな思いでいるのだろう。
東北の子ども達に今、見えない空襲が襲っている。
同じ日本人として何かをしなければいけない。これは明白でした。
でも何をしたら良いのだろう。
自分には何ができるのだろう。
いろいろと情報を集めた結果、「保養活動」が有効だと分かりました。
本来なら戦時中の学童疎開のように、学校ごと子ども達を2、3か月受け入れられたらいいと思いましたが、個人の力では到底無理。
私はダメ元で神奈川県のトップである知事に直談判しようと思い、スーツを着て神奈川県庁に行きました。
当時避難区域に指定されている福島県浜通りの小学校と中学校のリストを作成し、要望書と共に知事室へ。
しかしながら当然の事ながら突然の訪問は受け入れられず、秘書の方に要望書だけを託けて帰ってきました。
自分の連絡先を記載していたので返事を待っていましたが連絡はありませんでした。
しかしどうしても自分の気持ちがおさまらず、私は幼稚園のママ友に協力を呼びかけ、『母ちゃんず』を立ち上げ、2012年3月短期保養キャンプを始めたのです。その日から現在に至るまで年2、3回の3~5泊のキャンプを継続し、延べ約950名の福島の親子を無料招待してきました。
初回キャンプの初日
参加者と共に雑魚寝していた私は現実を目の当たりにしました。
夜中に3人の福島の子ども達が同時に鼻血を出し始めたのです。
普通ではない量。
絵具のチューブを力強く押した時のように、大量の鼻血を出していました。
そして福島の母達からはいろんな話を聞きました。
夕方になると微熱が始まり下痢が収まらない症状が数か月続く。
外遊びが制限されているから平衡感覚が鈍り、平坦な道でもつまずいてしまう。
免疫力の低下で夏でもインフルエンザ。
「福島で産んでごめんね」と、寝ている子ども達を見て涙を流す。
保養合宿に訪れる母達は、地元の親戚や友人に内緒で逃れるようにして神奈川に来る。
そしてようやく自分達の不安な気持ちを吐き出せる。
神奈川の自然の中で汗を流して遊ぶキラキラした自分の子ども達を見て、安堵感で涙を流す母達。
ようやく緊張から解き放たれ、安心して笑う母達を見て子ども達も喜ぶ。
ウクライナやベラルーシの子ども達は2~3週間放射線量の低い地域に行き保養しています。
それを参考にして福島の母達は子ども達を連れ、日本全国の保養合宿に参加する日々が続きました。
幼い子ども達を連れ、大きなトランクを持ち、疲れた体をひきずり各地に出向く。
休みの度に出掛けていく。
福島の母達はどんなにか疲れているか、どんなにか休みたいか、と思いました。
幼い子ども達を体の前後にくくりつけ、大きなトランクを引きずる母達の姿。
政治家の方々にこういう光景こそを見てもらいたいと何度思った事か。
彼女達の旅は北海道から沖縄まで続きます。
事故直後は必死で全国に出掛けていた母達が、5、6年たったころから「疲れた」という声が大きくなってきました。
また、受入側の資金難やスタッフの高齢化により、団体数が減ってきたのもこの頃からです。
仕事を持つ母達にとり、決められた日程の合宿に参加するのは本当に大変でした。
なぜそんなに休みを取るのか、職場の人達の冷たい目線に我慢しながら必死で参加してきました。
安く泊まれて好きな時に泊まれる場所が欲しい。
そんな言葉をずっと聞いてきました。
もし自分が福島で子育てをする母だったとしたら・・・。
関東に住む自分達が使う電気のせいで、こんな事になってごめんね・・・。
『GAYAGAYA』をスタートする理由
そんな時、合宿に参加してくれた郡山市に住むあるお母さんが言いました。
「私は母として必ずやると決めている事が2つあります。
それは子ども達に毎年甲状腺検査を受けさせる事。
そして保養に出掛けること。」
この彼女の言葉がいなずまとして私の体をかけめぐりました。
自分たちがやっている事が、誰かの命を守る事につながっている。
これが私が残りの人生をかけて福島の子ども達と生きると決めた理由であり、瞬間です。
自分の子ども達を守り抜こうと決心した母は自分自身なのです。
こうした母がいる限り、私はたとえ必要とする人が一人になったとしても、自分ができるこの保養受入活動を続けていこうと決心しました。
それが私たちが『母ちゃんず』を継続する理由であり、同時に私が宿泊施設『GAYAGAYA』を新たにスタートさせる理由です。